(株)上万糧食製粉所の成り立ち
昭和3年、私の父・上野家次男の万平が広島市の西、観音町にあった建物を購入して始めた製粉工場。創業者の名前を冠して「ウエマン」と名づけ、団子の粉をはじめ上新粉や白玉粉など米を原料とした穀粉を作って売る、それが「上万糧食製粉所」の始まりでした。
当時は、材料を運ぶコンベヤーのベルトも手づくりでつぎはぎの状態。レンガ造りの焙煎機で石炭を燃やして米や大豆を煎り、胴搗粉砕機で粉状にして工場で直販していたものです。朝早くから汗を流しながら、焙煎機の前に座って火の調節をしていた父の姿が、今でもまぶたに焼きついています。
戦時中、食糧難の時代には原料が手に入りにくく、軍の下請けの仕事を細々と受けながら野菜を粉砕したり、イモ団子を作ったりして、家業を維持していました。工場には、食糧を分けて欲しいと長い行列ができました。原爆で姉弟を亡くすといった悲しみを乗り越え、戦後は母が揚げパンを作って売りながら、暖簾を守っていきました。こうして昭和20年、工場に隣接して自宅を建替えるときには「旅館ができるんじゃないか」と言われるほど、近所でも評判になったものです。
当時、中学を卒業して住み込みで働いていた数名を、父は実の息子のように慈しみ育て、経理学校へ通わせるなど、技術だけでなく社会人としても一人前にと面倒を見るような、そんな人情あふれる人でした。やがて彼らは勤続50年を超えるベテランとなり、父の右腕となって当社を支えてくれました。
父が引退を決意し、陸軍士官学校出身の私の主人に社長のイスを譲るときもまた、厳しく指導したのでした。まったくの畑違いからこの世界へ飛び込んだ主人は、粉づくりの技術を一から習い、経理学校に通ったり、バタンコ(オート三輪車)で商品を運んだりと、慣れない毎日に心身ともに苦労をしたようです。そんな主人のために、母は主人の夕食には必ず刺身を添えてくれたのでした。
粉づくりは、地道な仕事です。たとえ時代が変わっても、当社では昔ながらの製法を守っています。だからこそ、これほど長く愛され続けているのでしょう。創業者である父は、それは厳しく、まじめな人でした。原料の確保に苦労するような時代にも、お客様に支持されている品質を落とさないよう、頑固なまでに気を配っていました。
その姿勢は、今も変わりません。「ウエマン」の名に恥じない製品を作り続けたい 。レンガ造りの焙煎機がその役目を終え、最新設備の工場に移っても、時を経て受け継がれてきたものにはそれにふさわしい価値があります。多くのファンを持つ団子の粉も、当社ならではの配合にその柔らかさの秘密はあります。健康ブームに乗って人気の青きな粉は、風味を失わないで鮮やかな色を出すための工夫が凝らされています。上万糧食製粉所では、これらの製品を通して手づくりの素晴らしさと本物の味を、全国のお客様に届けていく姿勢を忘れずにいて欲しいと願っています。
〈株式会社上万糧食製粉所 監査役・上野美智子(談)〉









